12月はクリスマスや忘年会とイベントが目白押しで誰もが忙しくなり、そして大晦日を過ぎて新年を迎えることになります。
さて、新年には初詣を行う人が多いのですが、この初詣とはウキペディアによると、『元々は「年蘢り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に蘢る習慣であった。やがて年蘢りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となった。』と説明されています。
除夜詣では、各地の寺院で、人間が持つ108の煩悩を取り除き、清浄な新年を迎えるために除夜の鐘が撞かれます。
初詣では、年が明けてから初めて寺社(神社・寺院)や教会などに参拝し、一年の無事と平安を祈ることが行われます。
年の暮れと年明けで寺と神社に参拝することになる方が多いわけですが、寺は仏教、神社は神道です。
おまけにクリスマスはキリスト教であることを加えると、三種類の宗教行事を何の疑問もなく行える日本人は節操がないのでしょうか。
宗教行事といっても既にその意味など興味がなくイベント化、お祭り化しており、たくさんの人が行くから自分も行っておかないと気持ちが悪いということでしょうか。
それともこれらの宗教が、実はその大本では一つであったということを暗に知っているからなのでしょうか。(先の記事『釈尊の正体』およびインターネット上での神道の正体についての情報をご参照ください。)
しかし、そんなことは実はどうでもいいことなのです。
それよりも重要なのは、除夜の鐘を撞いて(仏に祈って)煩悩を取り除いたり、初詣で神様に一年の無事と平安を祈っていることです。
「祈って」という言葉のかもし出す雰囲気やイメージが清浄な感を与えますが、言い換えると仏や神に自らの煩悩除去や一年の無事を守らせるということです。
もっと明確に言うと「命令してやらせる」ということです。
お賽銭や奉納物は、そのためのお駄賃ということになります。
神や仏もずいぶんと酷い扱いを受けているものです。
また、命令している人間は神や仏に命令できる立場なのですから、自らが「神仏」以上であるということになってしまいます。
「神仏」以上ならば、神仏に命令せずに自分で自分の煩悩を取り除き、自分で自分の一年の無事を守ればよいのではないでしょうか。
これこそが人間のやっていることなのです。
すべての人間が本当の意味での自己責任を(先の記事『自然の法則から見た自己責任』を参照)果たさずに、神仏に、政治家、官僚、大衆、夫、妻、恋人、友人・・・・という自分以外の他人に、社会システムに、責任転嫁しているのです。
誤解の無いように述べますが、神仏を否定しろと言っているわけではありません。神仏に命令できるあなたは神仏と同等であり、本来神仏と同等に自らが自らの責任を果たすことができるという意味です。
神仏を祈るならば、それらと同等である自らの本来の姿を祈っているということです。
しかし、祈っていてもその姿を自らが体現していなければ、偶像を崇拝しているだけです。
体現するとは実践することです。
体現するって?
神仏と同等って?
一体どうすればいいの?
自分の性格さえも自分ではわからないのに・・・・・。
と言われる方もあるでしょう。
こういう話があります。
俳優が様々な役柄を演じているうちに、自分自身のオリジナリティが判らなくなってしまうという場合があるようです。
また、多重人格というような実例もあります。
有名な例では、アメリカ合衆国で強盗・強姦事件で逮捕・起訴されたビリー・ミリガンという男性が、解離性同一性障害(いわゆる多重人格障害)を患っていると主張、裁判で多重人格と事件の関わりにおいて注目され有名になりました。
前者も後者も自ら以外の霊的存在の想念の影響が考えられますが、どこからどこまでが自ら以外で、どこからどこまでが自らであるという区別は、自らでも第三者によってもできるものではありません。(先の記事『スピリチュアリズム情報を発信した者の責任』を参照)
これらすべてが自分というように考えれば何も問題はありません。
よく考えてみて下さい。自分という固定した基準を創る必要がどこにあるのでしょうか。
これまでの記事で自然の摂理に基づいた生き方に戻ることが、全ての問題を解決する唯一の方法であると述べてきました。
人間の目からみた自然は、千変万化、自らの思うように自由に変化していきます。ミクロな視点で見ても、マクロな視点でみても、それぞれが相互に関連しながら逆らうことなく素直に自らを表現していきます。
その自然の中に生きている人間も自然なのですから、常に千変万化しても何も問題はありません。
かえって固定概念による枠に自らをはめ込んで、「自分はこういうタイプだから・・・」という納得をさせているならば、自然に逆らっているのであり、それはなにかを避けるための言い訳としか考えられません。
どのように変化していても、常に今その瞬間の意識が自分なのです。
瞬間瞬間の素直、正直な気持ちをそのまま表現して行動すればよいのです。
それを躊躇するのは、これまでそのように自然な生き方をすることを避けてきたため、枠の無い状態が不安で怖いだけなのです。
また、そういう生き方をして、常に瞬間瞬間変化する人間に対して、終始一貫していないことを理由に「訳がわからない」と評価する方もいます。
しかし、一見、終始一貫しているように見える方でも、本当に終始一貫しているかというと必ずしもそうではありません。
それなのに終始一貫していることを求めるのは、その人と接する側が、その人を終始一貫している方だというように判断して(自らがそのように見て)安心したいだけなのです。
さらにその人に終始一貫しておいてもらわないと、自らにとって都合が悪いからなのです。
他人の言動を100%予測できないということは、他人は次の瞬間どのように行動するかわからないということであり、終始一貫していると思うのは幻想でしかありません。
これは自らにも言えることです。
自らの行動を完全に100%終始一貫していると言える方があるでしょうか。
言えないのならば、自らも常に変化する存在であるということであり、固定した自らや固定した相手という幻想を早く捨てて、瞬間瞬間どのようにでも自由に変化できる自らを素直に生きることです。
そして、今この瞬間もあなたはそれほど自由であるというということを自覚することです。
それほど自由なあなたは神仏と同等であり、神仏に祈るまでもなく自己責任をしっかりと果たすことができるはずなのです。
宗教や哲学、精神世界、スピリチュアル等の情報を求める人の中に「本当の自分探し」をしている方がいますが、それを探しているその意識体は一体誰なのでしょう。
自由に変化できるその意識体こそが自分なのだとするならば、一体何を探しているのでしょう。
それに探して見つかったということが分かるならば、それを探していた意識体は最初からその自分を知っていたということですから、知っていたのに実行していなかっただけということになりませんか。
「灯台下暗し」というのはこのことを言うのではないでしょうか。
はたまた、自らの心理的盲点(スコトーマ)というのはこのことを言うのではないでしょうか。
今この瞬間の自由な意識が人間の本質であることをしらばっくれるのは止めにして、自由な意識をそのまま行動する生き方に戻しましょう。
もう大丈夫ですから、何も怖くはないですから・・・・・。
TLC匠では、あなたが自然の法則に基づいた生き方に戻る実践サポートとして、あなたが正直・素直に生きる際の不安解消をお手伝い致します。また、本来は当該サポートこそ、宗教家が果たすべき役割であることを明確化し、嘘の宗教から真宗教へと変わるための提言も行っています。詳細はこちらをご覧ください。
ブログランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。

にほんブログ村ランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。
繰り返しになりますが、ここで言う宗教とは何らかの教団組織のことを意味しているのではなく、『自らの判断基準』そのものが宗教であるということです。
『自ら』とは本来は自然そのものなのです。
なぜならば、自然とはこの世界すべてのことを言うからです。この世界全ての中には当然、人間も含まれています。
その人間が不自然なことをしているならば、自然淘汰されるのは当たり前のことです。
災害、環境破壊、事故、病気、犯罪等は、全て人間が不自然なことをしてきたことの結果です。
実は自然淘汰が自らに起因するもの、自らに責任があることを多くの人は知っています。それが様々な表現で伝えられる人類の滅亡(天変地異や病気や戦争や宇宙人侵略を題材にした映画や様々な既存宗教における地獄の描写等)のイメージです。
なぜ、そのようなイメージを持つのでしょうか。想念が現実化するというならば、そのようなイメージを持つことがその現実を形成することになるのですが・・・。
そうかと言って滅亡など考えずに楽しいこと、天国、夢を思い続けようとしても逆効果です。(最近は天使さまが導いてくれるという天使系のスピリチュアリズムにはまっている方や、潜在意識のコントロールによって人、金、物を引き寄せて、夢を実現するテクニックにはまっている方が多いですね。)
緊張してあがってしまった時に、あがらないようにしようとすればする程にあがってしまうのと同様で、滅亡と対極にあるものを求めようとすればするほど、滅亡を意識していることになるのですから、より滅亡の想念を強めていることになるのです。
前述のように『自らの判断基準』における『判断基準』とは『自然の法則(掟)』のことなのです。
法則を外れると不自然になります。
不自然とは不都合です。
不都合とは本来はないものです。
もし、不都合があるならば不自然だということですから、自然に戻せばよいのです。
特に目に見える形の不自然は、その形を創造した自らの思い(想念)の不自然なのだから思いを自然に戻せばよいのです。
実は自然な思い(想念)を全ての人は知っています。
それが自らの本体であり、最近のスピリチュアリズムが言う本来のスピリチュアル(=霊魂)なのです。
正直、素直とは、その自然な思いをそのまま実践することを意味しています。
ところが社会の中で、それを実践すると異端者、非常識人、自分勝手という評価を受けることになります。
これがなぜかというと、正直、素直に行動する人間が現れると都合が悪いという思いが根底にあるからなのです。
何度も言いますが、『実は自然な思い(想念)を全ての人は知っています。』
しかし、それを実践した時に体験する様々な評価を避け、不自然な自らを続けていることを自らが一番知っているからなのです。
本当のこと(自然な生き方)を実践するのを先延ばしにしているのですから、本当のことを実践する人が出てくると自らの嘘がばれてしまうからなのです。
『天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず』ということわざがあります。天の網は、ひろびろとして目が粗いようだが、けっして悪をのがさないという意味です。
ここで言う『天網』とは自らのスピリチュアル(=霊魂)ということであり、自分自身ということです。
自分の全てを見ているのは自分以外にはないのですから当然のことです。
さて、本日(11月25日)に、TBSのテレビ番組「キミハ・ブレイク」(中居正広の家族会議を開こう!)で、食肉偽装事件のミートホープ社の元幹部であり、内部告発者である赤羽氏が出演して事件について語っていました。
同氏は告発に至る過程で、自らが職を失うことにより家族の生活が破綻してしまうことを恐れ、告発の時期が遅れてしまったことを正直に語っていました。また、告発の結果として自らが長年働いた職場が解体される姿を見ることになった辛さや、従業員を路頭に迷わせてしまったことに対する自責の念で苦しいことも正直に語っていました。
これに対して同席した出演者から、同氏がもっと早い時期に社長に偽装を止めるよう上申すべきであったと述べていました。
また、告発者として苦しい心境であったとしても、食肉偽装という行為を行っていた会社に偽装の期間に所属していたことは同じ穴の狢(むじな)であるという指摘もありました。
同席した出演者の主張は誠にごもっともなのですが、このブログ記事の前半を読んでそのような言葉を同氏に発することが果たしてできるでしょうか。
同氏の社長への偽装中止の上申や告発が遅れたことは確かなことです。
しかし、その遅れによって同氏は様々な非難や自責の念にさいなまれ、また、同社の社員も職を失うという結果を自らの体験として受けています。
遅れた責任は自然の法則によって、ちゃんとご本人に返ってきているのです。
第三者がどうのこうのと言えることではないはずです。
同氏を批判しているのは、すべて自らの利害に関係するからではないのですか。
自らが騙された、自らが被害を被ったということで批判しているのではないですか。
同氏が「自らがかわいさの心があった。」と述べたことは正直さではないですか。
自らの利害に係わる部分的なところだけで他人を批判している、その自分に嘘はないのですか。
自然の法則とは全てのことを含む法則です。
全てのことという視点で自らを見つめ直したとき、本当に素直に正直に生きていると言えますか。
『全て』です。
もし、少しでも嘘があり、自然の法則を外しているならば、その外れを元に戻すことを先延ばししていると、同氏と同様に延ばした分だけ自らにしっかりと返ってきます。
それが自然の法則であり、人間は自然の法則の中に居る自然そのものなのです。
あなたは先延ばしして、自然淘汰を迎えますか、それとも今から少しずつ自然の法則に基づいた生き方へと戻していきますか。
どちらを選択しても構いません。
自己責任も自然の法則なのですから・・・・。
追記
『自然の法則』に基づいた生き方の参考として、下記リンク先に記載の各ブログをご覧になってください。
http://tlcoct21.jp/pc/index.html
TLC匠では、あなたが自然の法則に基づいた生き方に戻る実践サポートとして、あなたが正直・素直に生きる際の不安解消をお手伝い致します。また、本来は当該サポートこそ、宗教家が果たすべき役割であることを明確化し、嘘の宗教から真宗教へと変わるための提言も行っています。詳細はこちらをご覧ください。
ブログランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。

にほんブログ村ランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。
また、この身体が存在する物理世界における生き方が、非常に重要であることも述べました。
思い(想念)と形では、思いが先で形が後から現れます。従って私たちの本質が霊であることは確かなことです。
しかし人間の歴史の中で、いつしか形が先であるかの錯覚に陥っているのです。
例えば私たち人間が体験してきた戦争の歴史は、人間の思い(想念)での戦争、自らの内側にある戦争が外側の戦争という形を創り出したのですが、その外側の戦争を悪いことだからやめるべきだと主張して戦いを繰り返しています。
自らの内側での戦争とは、自らの外側にある形を○か×かで(ココロの中で)判断することです。そして、この判断は言葉に出す前に必ず自らの内側で行っているものです。
本当に戦争を無くしたいと思っているのならば、外側に見えている他人の価値観に基づく言動(すなわち形)に戦いを挑んだり、自らの正当性を証明しようとする言動ではなく、自らが戦いたくなるのは、自らの内側にある○×が原因であることを自覚することが必要です。
戦争だけではなく、論争や喧嘩やいじめ等も、一人一人が戦争や論争や喧嘩やいじめを創り出す原因は、自らの内側の判断やその判断から生じる葛藤によるものであることに気づき、それを変えなければ永遠に無くなることはありません。
さて、この自らの内側の判断を宗教といいます。
宗教と言うユダヤ教、キリスト教、イスラム、仏教、ヒンズー教や、昨今の新興宗教、スピリチュアリズムに根ざしたカルト宗教の類を思い浮かべられるかもしれませんが、例えば常識、教育、親のしつけ、ルール、経済システム等、自らの価値判断基準や社会生活を営む上において自らが同意して受け入れているものは全て大きな宗教と言うことができます。
この大きな宗教ということについて、トータルライフコンサルタント「長谷章宏」氏の著書(「西暦2000年ミロクの世が開かれる」)に次のように記されています。
『 皆さんの中には、「自分はこの競争社会を生き残るのに忙しくて、そんな哲学や宗教の話をしている暇などない」という方もいらっしゃるかもしれません。でも、皆さんの人生には、実際のところ、皆さんの人生に全く何の影響も及ぼさないような、単なる「哲学」や単なる「宗教」というものは一切ないのです。本当は、「哲学」や「宗教」というものは、皆さんの体験を創りだす原因となる非常に大切な道具なのです。つまり、他でもない、今ここに提示した、このセリフ自体が、皆さんに「哲学や宗教の話をしている暇をなくす」体験を創りだしている「宗教」そのものなのだということです(ここでは「見方」「考え方」「基準」「観念」「想念」「哲学」「(今までの○○教という)宗教」等々をすべてひっくるめて「宗教」ということにしますので、そのつもりで読んで下さい)。
皆さんの体験というのは、皆さんが選んでいる「宗教」によって、自由自在に、どうにでも変わるものなのです。皆さんの選択次第で、「自分が望むことは何でもできる」と言っても過言ではありません。実を言うと、皆さんの体験は、すべて皆さんが言っているセリフ通りになっているのです。そして、皆さんは、外側に原因を求めていますから、その見つけた原因が自分自身の創りだした作品であることを知らずに、そのセリフを言い続けることになるのです。
皆さんがもし、「そういう考え方はおかしい」と言うとしたならば、それもまた、皆さんのもっている「宗教」の産物であり、その「宗教」をもっている限り、いつまでもそのセリフを言い続けることになります。」 』
『 皆さんの多くは、「○○という現実があるから自分はそうするのだ」「○○という現実があるからそうするしかないのだ」「したいけれども、○○といいう現実があるからできないのだ」と言っています。皆さんに気づいてほしいのは、「○○という現実がある」と決めているのは、皆さん自身であるということです。ここに気づかなければ、皆さんのやりたいことは永遠にできないということになります。
先ほどのセリフを使えば、「競争社会」が先にあるのではなくて、まず初めに、皆さん自身が「自分は競争社会に生きる」というゲームを選び、「競争社会で生き残るには○○をするしかない」という「宗教」を選ぶことを決めて、それに従って行動して、その結果を体験して導きだされたのが「自分は〜」のセリフなのです。
「自分は〜」のセリフというのは、自分が今やっている行動の理由ではなくて、自分のやっている行動の結果なのです。つまり、皆さんは「暇」がないのではなくて、自分で自分の「暇」をなくしているということになります。
皆さんが、「宗教」や「哲学」の話を避けてしないということは、自分で自分の「暇」をなくしているということになります。
皆さんが、「宗教」や「哲学」の話を避けてしないということは、自分で自分の成功、幸福、永遠の安らぎ、夢の実現を放棄していることと同じことなのです。本当は、この話題は、人間として避けて通れない大切な大切な話題なのです。
実を言うと、皆さんが、このセリフを言っている限り、皆さんのこの人生だけでなく、皆さんが死んだ(肉体を離れた)後も、皆さんには、永遠に「天国」はありません。今この人生の今ここの現実が「天国」でなければ、あの世へ旅立っても「天国」ではないのです。今ここが「天国」ならば、いつ旅立っても「天国」が約束されているのです。
それはつまり、言い換えると、皆さんが持っている最大の恐れ(「死」の恐れ)から永遠に解放されると同時に、永遠のイノチを得るということでもあるのです。(「天国」といっても、「快楽」の一時だけの天国ではだめで、別の意味の「天国」を創りだすことが必要ですから、悪しからず。その方法について書いたのがこの本です。)
こういうような真実を知ることによって、「臓器移植」や「延命治療」の是非や、それに係わる「脳死」や「生体移植」や「安楽死」や「医療ミス」等々、「肉体の死」に係わる様々な問題は、一気に、綺麗サッパリと解結してしまうのです。そして、議論に使っていた時間を自分の好きなことに使うこともできるのです。これは、この問題だけではなく、すべての悩み、すべての問題に当てはまることです。 』
つまり私たち人間は、非常に限定された範囲で「宗教」や「哲学」という言葉の概念を捉えていて、自らが様々な判断を行っていることそれ自体が「宗教」や「哲学」であることを分かっていないということです。
さらに、その様々な判断の基準になっているものを当たり前のように鵜呑みにしており、その判断(思い・想念)が外側の現実(形)を形成しているという順序で進んでいることを忘れ、形が先にあると錯覚して、その形を問題視して解決策(回避策)を講じるため、問題を益々複雑化しているのです。
樹木に例えると根の部分を見つめ直さずに、幹から枝へ、枝から葉へと問題を広げていったのが人間の歴史であるということです。
本当に全ての人が幸せで平和に暮らせる社会を望むのであれば、今すぐに枝葉の問題解決を止めて、根の部分、すなわち自らの判断基準を見つめ直し、変えていく行動が必要です。
自ら自身が宗教なのですから、その宗教を真偽を見つめ直し、変えていくのも自らで行うしかないのです。
TLC匠では、あなたが本当の自由を生きるための実践サポートとして、あなたの脱洗脳をお手伝い致します。また、宗教家が本来果たすべき役割を明確化し、嘘の宗教から真宗教へと変わるための提言も行っています。詳細はこちらをご覧ください。
ブログランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。

にほんブログ村ランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。
身体を持つ私たち全てが、このような生き方を進めていけば、この時空に存在する全ての存在が本来の自然の状態に戻るということです。
そして「身体を持つ私たちの生き方を進めていけば」と言った時点で、身体を持たない霊的存在を信じる方であろうと信じない方であろうと、自らの生き方という部分のみに焦点を当て、自らの生き方を省みて、この物質世界の自らの寿命をしっかりと生きていけばよいという結論がでてくるのです。
つまり一人一人が今この物質世界において、自らの生き方が本当に自然の摂理に基づいているかどうかをしっかりと見つめ直し、勇気を持って自らの答えに正直に素直に生きていくことが重要だということです。
その上でスピリチュアリズムの情報を知っているならば、この社会の様々な問題が、なぜ問題視されることになるのかというメカニズムも明確になってくるのです。
スピリチュアリズムの情報を自らの嘘の生き方の正当化に用いていてはなりません。それをはっきりと伝えるのが宗教家の役割であると思います。
さて、前述のように身体を持たない霊的存在が、私たちの生き方を通して気づきを得ると述べましたが、別にそのような存在のために私たちの人生があるということではありません。
私たち一人一人の生き方がこの物質世界全体に大きな影響を及ぼしているのと同様に、この時空に同居している霊的世界にも影響を及ぼしているということです。
私たちも霊的存在なのですから、物質世界とか霊的世界とか分けて考えることがそもそもおかしいことなのです。
一人一人が自らの人生を、地に足をつけて自らで考えて歩んでいくことが大切なのです。
それが自然の摂理に基づいて生きていくということです。
これまでも述べてきましたが、「自然の摂理に基づいて」という言葉を誤解してはいけません。
決して、自給自足生活や原始の時代に戻ることを意味しているわけではありません。
私たちは自然の中に存在しているのですから、私たち自身が自然なのです。
したがって私たちが素直に感じていること、思うことが自然だということです。
では素直とは何かということですが、この世界に生まれて後、誰しも様々なことを教えられたり学んだりしてきています。また、生まれた時から先行してこの世界に存在しているシステムやルールがあります。
それを一度、棚上げして本当に自分の本心としてどう思うかということです。
棚上げしてと言ったのですが、そんなことをしたらこの世界がとんでもないことになってしまうと思われるでしょう。
しかし、今や私たちが信じてきた様々な常識のほとんどは嘘であったことが各方面で暴露され、明らかになってきています。
結局のところ、このまま進んで行ったとして、最後に信じるのは自分だけということになってしまうのです。
それならば全てを自らの感性で受け取り、自らの感性で行動するという生き方を始めてはどうでしょうか。
「誰かがやって大丈夫ならば、そういう生き方をしてみてもいいかな。」と周りの様子を伺っていても、お互いが様子を見ていたら何も変わることはありません。
先の記事(「自らが創った想念に対する責任」を参照)でも述べましたように、この物質世界の様々な問題は、全て人間一人一人のマイナスの想念を避け続ける繰り返しによって創り出されてきたものであり、現在もその繰り返しによって無限に複雑化しています。
その一方でマイナスの想念は一人一人の魂に対して残り続けているのです。
マイナスの想念の借金が膨れ上がっていると考えればわかると思います。
したがって身体を持たない霊的存在にとっては、マイナスの想念はマイナスの現実として、その魂に対して、瞬時に現実の体験として起こるのです。まして、膨れ上がったマイナスの想念が一気に自らに起こったらどういうことになるでしょう。
その一方で、幸いなことにこの物質世界においては、想念が形になるにはタイムラグがあります。身体を持った霊的存在である私たちは、身体を持っているが故の様々な制限はありますが、逆に自らが創ったマイナスの想念の責任を取って、プラスマイナスゼロにする猶予を与えられているとも言えるのです。
そう考えると身体を持っている間、すなわち自らの寿命が尽きるまでの間に、マイナスの想念の責任を取り、プラスマイナスゼロにすれば自然の摂理そのものに戻って、この物質世界においても本当の自由を生きることができるのです。
プラスマイナスゼロにするというのはどういうことかというと、目の前に起こる事象に、苦・楽、善・悪、良いこと・悪いことという価値判断をせずに自らの感性に従って生きていくことです。
本来プラスもマイナスもないのですから、価値判断して分けてしまった自らの視点を一つに統合するために実践行動するということです。
但し、これまでの生き方の癖として、苦・楽等の価値判断で二つに分けることをやめる生き方を始めると、自分自身にも周辺からも抵抗が出てきます。禁断症状といってもよいと思います。それを継続していくならば、徐々にそれを乗り越えることができるようになってきます。
また、同時にこれまでの自らの視点が全て逆さまであったことをはっきりと自覚するようになります。
以上のように身体を持った霊的存在であるからこそ、実践行動が行いやすいということなのです。
つまり今回の記事やこれまでの記事で述べているのは、本当の自由になるための実践行動が必要であるということです。
そして、それはこの身体を持った私たちの物質世界において実践していくということです。
TLC匠では、あなたが本当の自由を生きるための実践サポートとして、あなたの脱洗脳をお手伝い致します。また、宗教家が本来果たすべき役割を明確化し、嘘の宗教から真宗教へと変わるための提言も行っています。詳細はこちらをご覧ください。
ブログランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。

にほんブログ村ランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。
実は、この内容は以前の記事(「霊障と言う名の幻影と洗脳」を参照)に記載したのですが、今回少し異なる角度でアプローチしていきたいと思います。
前回、前々回の記事によって、このブログをお読みになっている皆さまも、自らが身体をもつ霊的存在であるということを少しはご理解頂いたことだと思います。
そして身体を失った状態、つまりこの世界でいう死を迎えたとき、本来の霊的存在そのもになるのですが、その霊的存在は私たちの物理世界と全く異なる別世界に行ってしまうわけではなく、身体を持った私たちから見えない(時に見える方もありますが)だけであり、この時空(時間、空間)に同居しています。
そして身体を持った霊的存在に働きかけて(エネルギー的に共鳴して)私たちに影響を及ぼしていますし、私たちの身体を通して様々なことを感じたりしています。
こう書くと霊の呪いや障り(さわり)という考え方のように思うかもしれませんが、その影響というのは、身体を持っているもの同士と同様に、影響を受ける側に隙があるからに他なりません。
身体を持つもの同士での出来事を考えてみれば明白です。自らに保身や欲があるならば、それにつけこんでだましたり、権力で言うことを聞かせたりというのはよくあることです。
脅しや買収や詐欺に遭うのは自らに保身や欲があるからです。全て自分に責任があるのです。
ところが必ずといってよいほど、そのような出来事に遭った場合、私たちは脅された、買収された、詐欺にはめられたと、全て受身形で解釈します。
挙句の果てには、被害者として自分を脅した、買収した、詐欺にはめた相手を責め、訴えるという行動に出ます。
本来、自然の摂理に従って生きていれば、その人にとっては問題など始めからないのです。
作用反作用で考えてみても、自らが何もしていなければ、つまり自らがやっていなければやられることはないのです。
被害者として相手を訴えたことで、相手をやっつけたことになります。
いいえ、訴えるという行動の前に自分は悪くない、相手が悪いという想念を持っただけで、相手をやっつけていることになります。
相手をやっつけたのだから、いつか反作用でやっつけられることになります。
終わりの無い想念の戦いの無限ループです。
想念がこの物理世界での形になるのならば、想念の戦いは議論という戦い、喧嘩という戦い、戦争という戦いという形で現れてきます。
もう一度述べます。本来、自然の摂理に従って生きていれば、その人にとっては問題など始めからないのです。
問題のように見える事象は、全て自らがこれまでに創ったマイナスの想念が返って来ているのです。
それを黙って受け取ることで、良いことも悪いことも、善も悪も最初から何も無かったことがわかると同時に、全ての人が思ったとおりに自由に平和に幸せに暮らせるようになるのです。
そして、私たちが身体を持った霊的存在であるということは、身体を失った霊的存在、最初から身体を持っていない霊的存在も含めて全く同じことをしているということなのです。
従って、この物理世界に居て身体を持った霊的存在の我々が、身体を持たない霊的存在の影響を恐れて、霊能者と言われる方に頼って、厄除けをしたり、霊障のお祓いをしたりするのは、この物理世界において権力を有する方や暴力団に頼んで、自らの周辺から相手を追い払っているのと同様です。
これは前述のように自らを被害者として、相手を加害者として訴える行動も同様です。
自らが自然の摂理に沿った生き方に戻るまで、自らが創った想念の収支決算を行いながら、その生き方から絶対にずれないことを貫くならば、身体を持つ霊的存在であろうと、身体を持たない霊的存在であろうと、相手はそれが正しい生き方なのだと何れは気づくことになります。
また、相手がどうであろうと自らは自然の摂理に沿った生き方に戻るのですから、何も問題のない思い通りの人生を歩むことができるようになるのです。
但し、このような生き方を進める場合、これまでに自らが創ったマイナスの想念を受け取らなければならないこと、この物理世界がそのマイナスの想念を全ての人が避け続けて形成してきた世界であるため、この物理世界での様々な抵抗を受けなければならないことは避けられません。
しかし、これこそが人生における苦労というものなのです。
自らの正直、素直な想念(気持ち)を我慢して、嘘で誤魔化して生きるのは苦労ではなく苦行でしかありません。
そんな苦行を自らが選択しておいて、ストレスが溜まったと言って、ストレス発散をしたり、癒しを求めたり、心身を病むという馬鹿なことをやっているのです。
以上のように、身体を持つ霊的存在の私たちが正直、素直な気持ちで生きることが自然の摂理に沿ったものであり、身体を持たない霊的存在もそのことを理解するという関係性にあるのです。
これらのことは宗教家や本当に霊的存在のことをわかる霊能者が、一般人に説明しなければならないことなのです。
しかし、ほとんどの宗教家や霊能者は、逆に霊的存在の影響を排除することが必要だと教えたり、それを手助けできるのは自らしかいないと主張して、その手助けによって財を得ることを考えているだけです。
本当は霊視力も、念仏も、題目も、お札(おふだ)も、お守りも、お祓いも、厄除けも、供養も、儀式も、聖典も、お経も何も必要ないのです。
一般人に霊的知識など必要ないのです。
ただ、この物理世界に身体を持った霊的存在として、物理世界に存在している間、自らの思いに正直に素直に生き、幸せに平和に自由に生きていればよいだけなのです。
それがこの物理世界と時空を共存して存在している身体を持たない霊的存在においても、幸せに平和に自由に生きることにつながるのです。
自然とは全てのことです。
全てには身体を持つ霊的存在も、身体を持たない霊的存在も、人間以外の動物も、植物も、鉱物も全て含まれるのです。
この世界全てが自然なのですから、その自然の中に生まれた私たちは自然なのです。
だから自然にしていればよかったのに、不自然なマイナスの想念を創ってしまったのです。
それが今、私たちの目の前に現れている環境破壊でもあるのです。
環境破壊は私たちの想念が破壊してしまっていることの現れです。
私たちは自然、最初から自然、だから自らが本当に感じていることこそが自然なのです。
おかしい、何か違っている、こんなことしたくない、本当はこうしたい、それら全てがあなたの自然な想念です。
一人一人がそこに戻る行動を起こすことしか、全ての存在が幸せに平和に自由に暮らせる世界へと戻す方法はありません。
追記
記事中にて一般人には霊的知識は必要ないと記載しましたが、商業主義によって中途半端に一般の方への情報が浸透してしまっています。
また、一般人がそれを信じて、霊的世界の遊びにそれらの知識を使ってしまっています。
昨今のスピリチュアルブームがそれを物語っています。
本当の事をしっかりと伝えて、この物理世界に身体を持つ霊的存在の私たちがどのように生きるのかを教えていくのが、これまで中途半端な情報を提供してきた者の務めであり、責任です。
私自身もその責任を全うしていきます。
TLC匠では、宗教の洗脳テクニックを暴露し、脱洗脳と宗教団体からの脱出をサポートしています。また、宗教が真宗教へと変わるための提言も行っています。詳細はこちらをご覧ください。
ブログランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。

にほんブログ村ランキング参加中
ご協力頂ける方は下のバナーをクリック願います。






